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> No.5194[元記事へ]
thetaさん
> たしか以前にこの掲示板で、山根銀二氏のシューリヒト絶賛評が紹介されていたと思います。山根氏は戦前からの楽壇の重鎮ですから、これはもしかすると小澤さんや岩城さんの「神だ、神だ」(笑)より古いものなのでは?
うっすら記憶にありますが、忘れてますね(笑)どんな文章だったでしょう。
ヨーロッパへ行って聞いてきた旅日記のようなものにシューリヒトが出てくることは結構あったかもしれません。誰だったか、シューリヒトの第9を聞いて、ベームを冷たくしたような指揮だったという感想を読んだこともあります。
村田武雄氏はシューリヒトを実際に聞いた人です。東芝のエロイカの解説で、シューリヒトはヴァイオリンを美しく響かせることで知られた人、、みたいなことを書いていました。
しかし、没後50年以上もたっています。結局は、残された録音から得られる感動以外に必要なものはなく、古い批評や感想は、淘汰されて、影響力を失ったと思うのです。
解釈が、楽理や学問的に追求したものなら、その説明を読む必要があります。評論家にとってそうした解釈は説明しやすく評価もしやすいでしょう。
それに対して、シューリヒトの演奏や解釈は、時間の芸術としての音楽、生まれてくる音や旋律に対する純粋な反応の連続が基礎となっているので、分析しようと試みても、結局つじつまの合わないものになりがちです。
彼の伝記を読んで、読書の虫だったという記述を読み、ああ、小説を読むように演奏したのか!と突然合点がいったりしました。もちろんそんなに単純なものではないでしょうが、それほど的を外してはいないように思えます。
話がおかしなところへ来てしまいましたが、シューリヒトを聞いて感動するのは簡単ですが、言葉で説明するのが、他の指揮者よりむつかしいのは、そんなところにあるのではと最近思っています。
これは、
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